« 2007年09月 | メイン | 2008年01月 »
2007年11月14日
神 様・仏 様・稲 尾 様
昭和30年代、西鉄ライオンズ黄金時代を築いた名投手、稲尾和久氏が13日未明、ガンの為急逝された。享年70歳。
私は稲尾和久さんの現役時代をライブで見てない世代である事をご理解の上で記述する。
以前、自身の研究発表の参考材料として、稲尾さんが1961年に挙げた「シーズン42勝」の登板内容を調べたく、近所の図書館にある朝日新聞、読売新聞の縮刷版を丸2日費やして読み漁った。
当時は交通網が発展途上で電車による移動手段が主流であった為、博多を本拠地とした西鉄ライオンズは地元での試合から離れると2週間遠征が常態と気力、体力共に厳しい環境でプレーされてた事を、記事を通して痛感した。
そんな環境の中で、先発しては中2日で抑え、次の日も抑え、そして中3日で先発という過酷な登板サイクルを難なくこなした「鉄腕」ぶりを発揮。終わってみれば78試合に登板、404イニングを投げ、42勝という前人未到の大記録を打立てられた。
1961年 稲尾和久の投手成績
4月 9試合 5勝1敗1セーブ
5月 10試合 5勝2敗
6月 12試合 7勝0敗3セーブ
7月 12試合 6勝3敗1セーブ
8月 15試合 7勝2敗4セーブ
9月 13試合 7勝4敗2セーブ
10月 7試合 5勝2敗
トータル 78試合 42勝14敗11セーブ
(当時はセーブ制度がなかった為、縮刷版を元に独自の調査で算出)
1961年の登板内容はセットポジションさんのサイトでご覧になれますが、近いうちにその年の稲尾さんの足跡をWEBにアップする事を考えてる。
一方、監督としては残念ながら一度もリーグ優勝がなかったが、ロッテオリオンズ時代の落合博満氏にかかわるエピソードは語り草となってる。
↓
とある日に落合氏は室内練習場でバッティング投手4人と共に約5時間にわたるバッティング練習をこなしたのだが、練習終了後に指の感覚を失い、バットから離れなくなってしまう事態に。
その時、物陰から姿を現し、何も言わず指をゆっくりとバットから離した人物こと、当時監督であった稲尾さんでした。打撃練習をずっと見守ってたのが起因で、稲尾さんを私淑(ししゅく)したそうです。
球界の中で一匹狼と呼ばれてる落合氏にとって、稲尾さんは唯一無条件で従う方でした。
↑
また、個人的には関係者のつてで太平洋クラブ時代の稲尾さんのサイン色紙を手に入れた時は嬉しかった事を鮮明に覚えてる。(当然今も保管してます)
つい先日、稲尾さんの地元である大分県別府市に自身の記念館が開館。記念館が入っている別府市民球場の落成式に出席された模様がWEBで紹介された矢先の訃報なだけに、非常に残念でなりません。
西鉄ライオンズを、平和台球場を、そして、九州博多の地をこよなく愛した鉄腕は文字通り、
「神様、仏様、稲尾様」となり、伝説の人と化してしまいました。
謹んでご冥福をお祈りします。
投稿者 shinorar : 00:23 | コメント (0)
2007年11月03日
パーフェクト<勝利 OR パーフェクト>勝利
日本シリーズ第5戦、ドラゴンズ-ファイターズ戦における落合監督の采配が物議をかもし出してる。
<試合内容>
3勝1敗ドラゴンズ王手で迎えた第5戦、ドラゴンズ先発の山井はファイターズ打線を8回までパーフェクトに抑えた。そして9回表、落合監督曰く「指にマメが出来た」事を理由に、岩瀬にチェンジ。岩瀬は9回1イニングを3人でピシャリ抑え、ドラゴンズが1-0でファイターズを破り、53年ぶりのドラゴンズ日本一、日本プロ野球史上初の「継投によるパーフェクトゲーム」を達成した。
「パーフェクトゲーム」より「勝利」を選択した落合監督の冷静なる采配、大記録を破棄した血も涙もない非情な采配・・・。落合監督が選択した采配は予想だにしない大論争に発展。
私が思うに、これほどの過剰になる事態、不思議でならない。完全試合よりも、”53年ぶり”のドラゴンズ日本一の方がはるかに重みがあると感じる
試合の模様は後にダイジェストでじっくり拝見した。山井の投球はコントロール、ストレートの切れともに完璧であった。「記録好き」の立場からしても、9回表、山井にはマウンドに立って(完全試合を達成して)欲しいとも感じた。
最少得点の1-0の9回表、山井のその時の状況はどうであれ、落合監督は勝つ確率が最も高い「ストッパー岩瀬の起用」を選択し、ドラゴンズを半世紀ぶりの日本一へ導いた。今回のようなシーンは10年に1回はあるかないかの非情に稀な状況ではあったが、最悪のシナリオ(9回山井が打たれ、ランナー残した時点で岩瀬に交代。そこでファイターズ打線に捕まり逆転で落とし、形勢が逆転する事)を未然に防いだ冷静なる判断であると私は考える。
しかし、今回のケースを機に、「継投によるノーヒット・ノーラン、または完全試合」も「参考」ではなく、「公認」として表彰して頂く事をこの場を借りて強く要望したい。
投稿者 shinorar : 10:57 | コメント (0)
昭 和
大手コンビニエンスストア「セブンイレブン」が間もなく上映される「ALWAYS 続3丁目の夕日」に特別協賛し、2007年11月2日(金)から昭和30-40年代の包装で当時を「再現」した菓子や加工食品、玩具などの販売を期間限定で始めた。復刻商品のリストはこちらをクリック。
ミルキーのパッケージは昭和26年当時のデザインを復刻させたもの、ベビースターラーメンは昭和30年当時のもの。炭酸飲料のチェリオは昭和42年の発売時のデザインを、雪印は昭和38年に発売したアイススティックと昭和39年に発売したカップアイスのパッケージを復刻させた。(カップアイスは銭湯からの帰り道でよく食ったなぁ)
そして日清食品の「昭和のカレーヌードル・カレーうどん」は、ハウス食品が昭和24年に発売した即席ハウスカレーのレシピを使用したもので、昔懐かしい味が楽しめられるそうだ。これは食った事がない、是非食したいものだ。
その他、小学生時代におやつで食べたものの復刻デザインが期間限定ではあるが続々復活。大人心をくずぶる面白い企画である。
投稿者 shinorar : 03:14 | コメント (0)
2007年11月02日
桧 舞 台
2007年、日本シリーズは4勝1敗でドラゴンズが53年ぶりにシリーズ制覇を果たした。
終わって1時間ほどがたち、某ドラゴンズ関係者へお祝いの電話を掛けた。
前回電話したのが2004年だから3年ぶりかな?
「おお~~~SHINO元気にやってんのか?」
「結婚はしたんか?」
ここ暫く連絡とってなかったにも関わらず、ハイテンションで会話も弾みまくり。
ドラゴンズが前回日本一になったとき、某氏はまだ3歳。
初の日本一ともあって、電話口からも嬉しそうな表情が頭の脳裏にかすんだ。
某氏には一つの借りを作ってる。
あれは8年前のこと。あるソフトウェア会社を辞めた時、某氏からお誘いをもらった。
「名古屋へ来る気あるか?」
SHINO 「それってお誘い・・・ですか」
「そうだよ。俺らと一緒に仕事せんか?」
自分の進みたい道がその先も続けられる願ってもないチャンスであったが、当時の自分には
それよりはるかに大きい夢を抱いてた為、お断りの電話を後日に入れた。
仕事のパートナーとして時には優しく、時には容赦ない罵声を浴びさせられたが、
社会人として生きていく基礎をその方から多く学んだ。
今でもその方には恩返ししたい思い、申し訳ない思いがある。
本来なら一ジャイアンツファンとして悔しい気持ちではあるが、その方の声を聞いた後、
「某氏、ホント良かった」その気持ちで一杯になり、気がつけば大粒の涙を流していた。
現役時代はひのき舞台に立てられずに引退をしたが、縁の下の力持ちの側に回って
XX年目に大輪の華を咲かせた某氏に心から拍手を送りたい。
投稿者 shinorar : 03:35


